東奈良遺跡と佐和良義神社

2024年1月8日(月・祝)

先日は、神武天皇の皇后の出身地だった摂津国三島地方にある溝咋神社を訪れました。
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溝咋神社の記事でも書きましたが、初代皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)の名前に、金属精錬で使用する炉やフイゴ意味する「タタラ」がついているのは、溝咋神社の周辺(東奈良遺跡)が銅鐸など銅器の一大産地だったことに由来すると言われています。


そこでこの日は、東奈良遺跡の出土品を展示する茨木市文化財資料館と、「タタラ」に関係の深い神さまを祀る佐和良義神社を訪れてみました。

茨木市文化財資料館

東奈良遺跡は、弥生時代の大規模環濠集落や古墳時代・中世の遺構を含む複合遺跡です。

遺跡からは弥生時代中期後半(紀元前1世紀ころ)の「銅鐸工房跡」が発見され、銅鐸の鋳型35点や銅鉾・勾玉などの鋳型が出土しています。





東奈良1号銅鐸鋳型

東奈良遺跡から出土した銅鐸鋳型。

日本で唯一完全な形を保った貴重な鋳型だそうです。

銅鐸の鐸身の文様を見ると、縦方向に展開する流水文(縦型流水文)が描かれています。

この縦型流水文は東奈良遺跡の銅鐸の特徴とされています。





我拝師山鐸(香川県・レプリカ)

東奈良遺跡から出土した鋳型を完全に一致する銅鐸が、大阪府豊中市香川県兵庫県からも発見されています。

こちらは香川県で出土した我拝師山鐸のレプリカ。





東奈良遺跡で作られた銅鐸の流通

上の図のように東奈良遺跡で作られた銅鐸は、近畿一円や四国南部に流通していた可能性が指摘されています。

東奈良遺跡の集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸・銅器の工房遺跡であり、各地に銅鐸を輸出することができるほど有力な地域だったことがうかがえます。






小銅鐸と舌

こちらは小銅鐸と舌。

これも溝咋神社の記事で書きましたが、初代皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)の「五十鈴媛」とは「たくさんの鈴がついているヒメ」という意味です。

おそらくヒメタタライスズヒメは、鈴(銅鐸?)の音色によって神霊を招き、神とつながった巫女的な女性だったのではないでしょうか。





ガラス勾玉鋳型

ガラスの勾玉の鋳型もありました。

ガラス製品の工房でもあったのですね。




安威0号墳1号

こちらは安威川近くの古墳から出土したガラス丸玉、勾玉、管玉。

色やデザインが現代的でおしゃれ。





弥生時代の土器

弥生時代の土器もありました。






文化財資料館に隣接する東奈良史跡公園にも立ち寄りました。

馬の埴輪

馬や人形、家などの埴輪のレプリカがあちこちに置かれています。




銅鐸鋳型のモニュメント

こちらは銅鐸鋳型のモニュメント。





和田惟政供養塔

信長時代に芥川城や高槻城を拠点とした和田惟政の供養塔も立っていました。

1571年に惟政は荒木村重が率いる摂津池田氏の軍勢を前に、付近の白井河原で敗死したからでしょうか。







佐和良義神社・鳥居

文化財資料館の近くにある佐和良義神社には、銅鐸製造とゆかりの深い神さまが祀られています。






旧跡 沢良宜城跡

佐和良義神社の辺りは、足利義持に仕えた藤井三位の居城・沢良宜城だったとされ、1399年の応永の乱では室町幕府直参の旗本としてここから出陣したそうです。

佐和良義神社の参道は当時の馬場跡とされています。





佐和良義神社

佐和良義神社の御祭神は、火の神・迦具土大神(カグツチ)です。

迦具土大神の「カグ」は「銅」の古語であり、佐和良義神社の「サワラ」も「銅」、「ギ」は「邑」を意味するものとされ、この一帯が銅器の加工・精製と関係が深かったことが推測されます。






拝殿と本殿

小さな神社に思えますが、側面から見るとけっこう立派です。





八幡神社・鳥居

こちらは摂社の八幡社。



八幡神社

沢良宜城の鎮守社で、石清水八幡宮から勧請されたそうです。


こうした町の片隅にも、古代と地続きの遺跡が神社が残っているのは歴史の古い日本ならでは。

特に関西はあちこちに古代神話の名残りが息づいていて、ふつうの街歩きが観光になる楽しい場所ですね♪