島原遊郭

2021年11月17日(水)

京都産業大学ギャラリーから足をのばして島原へ。

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島原大門

江戸時代以来、公許の花街として発展してきた島原。
「島原」という名の由来は、六条付近にあった傾城町が幕府の指示で現在の朱雀野の地へ移転するにあたり、あまりにも急な移転で騒動になったことから、「島原の乱」になぞらえて「島原」と名づけられたらしい。とはいえ「島原」というのは通称で、正式名は「新西屋敷」という。


島原大門の石碑には江戸後期の尼僧歌人大田垣蓮月の歌が刻まれている。

「嶋原のでぐちのやばぎをみて なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ」


写真にあるようなバイクやビルは興覚めだけど、柳と大門を眺めれば、少しだけ往時の雰囲気がしのばれる。今は観光客もなく、ひっそりしているけれど、きっと昔は賑やかな花やぎがあったのだろう。



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角屋もてなしの文化美術館

1641年の江戸初期に創業された角屋。
揚屋の遺構としては現存唯一のもので、重要文化財に指定されている(現在は「角屋もてなしの文化美術館」となっている)。

揚屋とは、客が太夫置屋から呼んで遊んだ場所で、置屋から揚屋までの道のりを太夫が練り歩く「太夫道中」があったとされる。
ちなみに、江戸吉原では最上位の遊女を花魁というが、京都島原では太夫と呼んだ。

角屋は、新撰組の隊士も遊んだ場所で、とくに新撰組局長・芹沢鴨が角屋の宴席で働いた乱暴狼藉は有名。酒乱の芹沢が店の対応に腹を立て、暴れまわったというエピソードが残っている。
暗殺された夜も、角屋で泥酔して帰宅したあと、寝込みを襲われ斬殺された。
角屋には、芹沢鴨がつけた刀傷も残っている。




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角屋

花街らしい、遊女の襦袢のような紅殻の壁が艶っぽい。
夜になると、二階の障子に娼妓や客たちのシルエットが映ったことだろう。





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長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋

角屋は、幕末の志士たちの密議の場でもあった。
写真は「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑。
吉田松陰の弟子だった 久坂玄瑞は、ここ角屋で尊王攘夷運動の密議を重ねた。

激動の幕末を駆け抜けた幕末の志士たち。
彼らのように憂国の念に駆られて命がけで時代を切り拓く若者は、今の日本にはいないのだろうか……。





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東鴻臚館址

東鴻臚館(ひがしこうろかん)とは、外国使節をもてなす迎賓館のこと。
平安時代、メインストリートだった朱雀大路をはさんで左右に東西鴻臚館が建てられた。
鴻臚館は渤海からの使節を歓待するために使われたが、927年に渤海が滅亡したため、鴻臚館も廃止されたという。





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平安京朱雀大路

島原のはずれ、京都中央卸売市場の塀の脇にある平安京朱雀大路跡。

平安時代朱雀大路は羅城門から朱雀門まで4キロメートルにわたって南北に延び、大路沿いには貴族の邸宅や役所の建物などがたち並んでいた。
この大路こそが都の中心だったが、右京の衰退により中心軸が東にずれて、朱雀大路は徐々に荒廃していった。
現在は千本通が、朱雀大路の痕跡をとどめている。




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輪違屋

1688年創業の輪違屋(わちがいや)は、300年以上たった今も現役で営業している。
そのうえ、日本で唯一「太夫」がいるお店だというからビックリ!(@_@)
現在の建物は19世紀後半に再建・改築されたもの。

輪違屋には新撰組の隊士たち馴染みの遊女たちも何人かいたらしい。

鬼滅の刃の舞台のような大正ロマンを感じさせる照明が味わい深い。
夜になって明かりが灯れば、きっと素敵な雰囲気なんだろうなあ。





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島原住吉神社

島原西門跡の近くにある島原住吉神社
島原の鎮守の神様として信仰され、かつて例祭では太夫・芸妓たちの仮装行列「練りもの」が盛大に行われた。
明治の廃仏毀釈によって廃社となるが、地元の人々の篤い崇敬の念により徐々に(稲荷神社として)再興され、1999年に社殿・拝殿が改修された。名称も稲荷神社から住吉神社に改称され、旧に復すことができたそうだ。

京都やその周辺の人々は信仰心が篤く、小さな神社や祠が町のあちこちに大切に祀られている。
そういう小祠を見るたびに、古き良き日本人の心に触れる気がする。




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大銀杏

島原住吉神社の旧境内に植わっていた大銀杏。
明治の廃仏毀釈により住吉神社は廃社になるが、この銀杏の木は御神木として遺された。
1930年にこの木の根元に弁財天が祀られることになり、さらに神木として信仰を集めるようになったという。

樹齢は推定300年。
300年かあ……。
遊女や太夫たちの悲恋も、幕末の志士たちの死闘も、すべてこの銀杏は見てきたのかもしれない。