2022年10月2日(日)
大和路が似合う秋。
大神神社から山の辺の道を通って檜原神社まで歩いてみました。
現在は海から離れた内陸部にある大和の地ですが、その昔、大和盆地は大きな湖で、三輪山の麓を通る山の辺の道が湖岸の道でした。
やがて、土地が土地が隆起して平野部が形成されていきましたが、7~8世紀までは舟運で大阪湾と直接つながっていて、今では想像もつかないほど海との距離が近く、瀬戸内海ルート・日本海ルートを通して日本各地や朝鮮半島との往来が盛んでした。
邪馬台国の最有力候補である纏向遺跡や、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳が近くにあるのも、水運の発達が大きく関与していたのでしょう。
ランチはもちろん、三輪そうめんと柿の葉寿司。このセットで900円くらいだったかな?
観光地なのに良心的なお値段。コシがあって美味しい。
三輪そうめんは、崇神天皇の御代、大物主神の子孫の従五位上大神主大神朝臣狭井久佐の次男・穀主(たねぬし)が飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願したところ、神の啓示を受けて、三輪の里で小麦をつくり、粉に挽いて捏ね上げて糸状にしたものが始まりだといいます。
ご当地グルメでエナジーチャージしたあとは、いよいよ大神神社に参拝です。
まずはここ、祓戸神社へ。
心身の罪・穢れを祓い清める祓戸四神が祀られています。
祓戸四神とは、黄泉の国から戻ったイザナギが禊をした際に生まれた瀬織津姫神、速秋津姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神の四神の総称。
ここで心身の悪い「気」を祓ってからお参りします。
三輪山には数々の磐座があり、この2つの岩も神様が鎮まる磐座だったようです。
いまは、大物主と活玉依姫の神婚譚にちなんだ夫婦岩として、縁結びや夫婦円満の御利益があるとされています。
この神婚譚は能《三輪》にも描かれたお話━━毎夜通ってくる男の素性を知りたくなった女が、男の着物の裾に糸をつけてたどっていくと、社前の杉の根元にたどり着き、男が三輪の神だったことを知る━━という悲しい恋の物語です。
悲恋の物語ですが、「糸で結ばれた」ということで、縁結びに御利益があるのかな?
蛇は大物主神の化身。手水舎でも蛇さんの口からお清めの水が流れ出ています。
伊勢は榊、住吉は松、三輪は杉に神が宿るとされていています。
この「しるしの杉」も三輪の神様が示現した御神木です。
1664年に徳川家綱が再建した拝殿。
三輪山そのものが御神体なので、拝殿を通して三輪山を拝む古代の信仰形式をとどめています。
拝殿の奥にある三ツ鳥居(重文)越しに三輪山を拝むのが本来の形ですが、コロナ感染拡大防止のため、拝観中止だそうです。
大物主神の化身・白蛇が棲むとされる神杉。
写真では見えにくいのですが、根本近くに蛇の住処とおぼしき空洞があり、神聖さが増しています。
賽銭箱の前には、蛇神さまが好む鶏卵やお酒が供えられています。
薬や医術の神様が祀られている神社に通じる「くすり道」。
メグスリノキやニッケイなど、日本の製薬会社・薬関係者が奉納した薬木・薬草が植えられています。
三輪といえば、お酒の神様としても有名。
崇神天皇の時代、高橋邑の活日(いくひ)が三輪大神の御加護によって芳醇な酒を醸したとされることから、杜氏の祖・酒の神様として祀られるようになりました。
活日とは「活霊(行く日)」とも書き、麹菌を活性させ、物を生み出す働きを表現した名前だそうです。
三輪山には頂上から麓にかけて、奥津磐座に大物主が、中津磐座に大国主が、辺津磐座に少彦名が鎮座しているとされていますが、この磐座神社は点在する辺津磐座のひとつ。
社殿がなく、磐座そのものを神座として祀る原始信仰の姿を見ることのできる場所です。
宗像三女神の一柱・市杵嶋姫を祀る神社。
絶世の美女とされた女神さまだけあって、鳥居・橋の欄干・社殿の朱塗りもあでやか。
神仏習合の本地垂迹では弁才天に比定されることもあり、水辺に橋を架けるという弁天社らしい神社構成です。
三島由紀夫は古神道研究の一環として大神神社の神事に参列し、三輪山山頂にも登拝しました。
大神神社で雅楽や杉の舞にも触れた三島は、「大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐に抱かれて過ごした日夜は終生忘れ得ぬ思い出であります」という感動の言葉を残しています。
今では観光客が多くなり(全国旅行割り&インバウンド解禁&円安効果でこれから爆発的に増えていくと思われます)、観光汚染が深刻化していますが、三島の時代はそれこそ「清明の一言に尽き」たことでしょう。
『豊饒の海』第二巻「市杵嶋姫」には三輪山信仰と大神神社の神事について書かれた箇所があるそうなので、久しぶりに再読してみようと思います。
主祭神は大神荒魂神(三輪大神の荒魂)。
大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命(大物主の娘で神武天皇の皇后)、勢夜多々良姫命(丹塗りの矢に変身した大物主と結ばれた女性)、事代主神(大国主の子)が配祀されています。
病気平癒の神様なので、「狭井(さい)大神 荒魂 守り給へ 導き給へ」と三度唱えてお祈りすると良いそうです。
万病に効くという薬水が湧き出る井戸なのですが、この日はコロナのせいで立入禁止となっていました。
代わりに別の場所で御神水が飲めることになっていたのですが、ちょっとカビ臭かったので、いただいたのは二口だけ。
それでも不思議なことに、くすり道を歩いていた時からキリキリと胃痛がしていたのですが、薬や病気平癒の神社をいくつか参拝して、御神水を飲んでからしばらく経つと、ケロッと治ってしまいました。御利益かな?
知恵の神様・久延彦神社の手前にあった展望台からの眺めが素敵でした。
大和の里の風景は、まあるく、まろやかで、観ているだけで心が和みます。
神社にしては変わった建物のように見えますが、こちらは明治の神仏分離までは大御輪寺だったところ。
神宮寺の貴重な遺構として重要文化財に指定されています。
祭神が大物主の子孫・大直禰子(オオタタネコ)であることから若宮社と呼ばれました。
少彦名と活玉依姫が配祀されています。
本来、三輪山は太陽信仰の行われた場所で、三輪山から昇る太陽(日神)が信仰されていました。
日神祭祀を行ったのが多氏で、多氏の祖・神八井耳命(神武天皇の皇子)を祀った多神社は、春分・秋分の日に三輪山から昇る太陽をまっすぐに拝める場所に配されています。
原初の太陽神は男神で、三輪山山頂には太陽神としての大物主を祀る神坐日向神社(高宮神社)という式内社がありました。
太陽祭祀の形式は次第に変容し、太陽神の巫女であったヒルメが皇室の祖神へと昇格して天照大神となり、太陽神たる大物主は国津神として三輪山そのものと一体化したのです。
そうした過程で三輪山祭祀を担ったのが、三輪氏の祖となるオオタタネコでした。
三輪流神道では天照大神と三輪大明神は同体だとされており、この教えは能《三輪》の「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」という詞章にもあらわれています。
能《三輪》に登場する玄賓僧都の庵。遠くから見ると、名家のお屋敷かと思うほどの立派な佇まい。
僧侶の草庵なので明治の廃仏毀釈の際に、三輪山の山外の現在地に移されました。
能の《三輪》では、秋深い玄賓庵を女性が訪れ、僧都が住まいを尋ねると、「わが庵は三輪の山本恋しくば訪らひ来ませ杉立てる門」という歌を詠んで消えてしまいます(後場ではその女性が女神の姿の三輪明神となって神楽を舞います)。
これまで友枝昭代や片山九郎右衛門、浅井文義など《三輪》の名舞台を観てきましたが、そうした舞台を彷彿させるような、まるでここだけ時間が止まって、夢幻能の世界に迷い込んだような不思議な感覚でした。
庵の裏手には小さな滝が流れ、その水音が、うら寂しく、清涼な空気に響いていたのが、とても印象に残っています。
もともと皇祖・天照大神は宮中に祀られていたのですが、崇神天皇が皇女・豊鍬入姫に託して倭笠縫邑(現在の檜原神社の場所)に遷されたため、この地は元伊勢と呼ばれています。
檜原神社も大神神社と同じように社殿はなく、三ツ鳥居から参拝する形式です。
三ツ鳥居は、1965年に伊勢神宮の旧内宮外玉垣の東御門の古材を拝領して復元されたもの。
神社の前には、注連縄の張られた標柱が立ち、その向こうには、額縁に切り取られたように二上山がくっきりと見えます。
三輪山から昇る朝日と、二上山に沈む夕日。まさにここは太陽信仰の聖地なのです。
大津皇子は天武天皇の皇子でしたが、謀反の罪を着せられて24歳で自害。
大津皇子が二上山に移葬されたときに姉の大伯皇女が詠んだ歌が万葉集に残されています。
「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む」
倭迹迹日百襲姫命は、孝霊天皇の皇女で、大物主の神託を受ける巫女でした。
三輪山神婚譚━━大物主の正体が蛇であることを知った姫が、驚いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなる物語━━でも有名です。
大物主にまつわるほかの神婚譚と同様、とても悲しい物語なのですが、こうしてお社を眺めてみると、大物主が宿る三輪山に寄り添うように社殿がやさしく鎮座していて、遠い昔から聖なる夫婦は静かに心を通わせてきたようにも思えてきます。
4世紀末の全長89メートルの帆立貝形前方後円墳。
茅原大墓古墳からはさまざまな形状の埴輪が出土していますが、邪悪なものから墓を守護する「盾持人(たてもちびと)埴輪」は最古の人物埴輪として注目されています。
この付近には箸墓古墳をはじめ3世紀から4世紀後半にかけて大型古墳がいくつも築造され、政権中枢勢力の根拠地があったと考えられていますが、4世紀末になると、この茅原大墓古墳を除いて明確な首長墓は見られなくなり、中枢勢力の衰退ぶりがわかるそうです。
黄金色に輝く稲穂。
ふと農作業の手を止めて見上げると、いつもそこには人々をやさしく見守る三輪山があり、豊穣の感謝を神に捧げる……そうした人々の暮らしが古代からずっと続いてきたことが、三輪の里を歩くと実感できるのです。