2022年11月25日(金)
秋深まる晴れた日に、京都太秦へ行ってきました。
京福電車・嵐電には初めて乗りましたが、無人駅も多くて、路面電車は風情がありますね。
たった半日の小旅行ですが、クラシカルな車両が旅の気分を盛り上げてくれます。
太秦広隆寺駅の目の前に、ドーンとそびえたつ楼門。
広隆寺の前身・蜂岡寺は、秦河勝が聖徳太子から賜った弥勒菩薩像を本尊として、622年に建立されたといわれています。
しかし、818年に寺が全焼したため、創建当時の建物は残っていないようです
この楼門(南大門)も1702年に建立されたもの。
境内は紅葉が真っ盛りで、黄金色の銀杏とのコントラストがきれいでした。
しばし紅葉を満喫。
こちらは薬師堂。
広隆寺の本尊は時代によって変遷しています。
創建当初は秦河勝が聖徳太子から賜った「弥勒菩薩像」でしたが、平安期には「薬師如来」となり、その後、「聖徳太子像」が本尊として祀られるようになって現在に至っています。
この薬師堂には、かつての本尊・薬師如来立像(平安前期の作)が安置されていました。
広隆寺の薬師如来は、吉祥天風の女神のような姿でつくられた吉祥薬師像で、現在は秘仏として毎年11月22日にのみ御開帳されるそうです。
こちらが本堂の上宮王院太子堂。
現在の本尊である聖徳太子像が祀られていますが、こちらも秘仏で、拝見できるのは毎年11月22日のみ。
この聖徳太子像は、聖徳太子が秦河勝に弥勒菩薩像を授けた時の年齢である33歳のお姿で、下着姿の像の上に特別な着物を着せて安置されています。
特別な着物とは、天皇陛下が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)のこと。
広隆寺では、天皇陛下より贈られた黄櫨染御袍を聖徳太子像に着せる習わしが平安時代から続いているそうです。
太子堂にお参りしていると、ふと目に入ったものがありました。
「五芒星」の額です。
秦氏がユダヤ系渡来人だったという面白い説がありますが、ユダヤのシンボルといえばダヴィデの星(六芒星)。
日本で五芒星といえば、安倍晴明の陰陽道で用いられる祈祷呪符。
そして、ここ秦氏の氏寺・広隆寺には五芒星(ペンタグラム)が飾られていて……。
ふーむ? 何かつながりがあるのでしょうか?
秦氏は、まだまだ謎に満ちた一族です。
漢織女(くれはとり)・呉秦女(あやはとり)は、日本に絹織物の技術を伝えた渡来人の織姫たちで、織物業の神さまとして崇敬されています。
471年には、秦酒公が秦の民1万8000余人を集めて養蚕を行い、織らせた絹を山のごとく積みあげて天皇に献上したことから「禹豆麻佐(うつまさ)」の号を賜ったといいます。
「禹豆麻佐」の号がのちに地名に変わり、「太秦」と呼ばれるようになって現代に至ります。
私見ですが、「太秦」の「太」にはサンスクリット語の「マハ(摩訶)」(大いなる、偉大なる)という意味が込められていて、つまり「太秦」とは「偉大なる秦氏の地」という意味合いがあるのかもしれません。
地名については他にも、「うずまさ」はアラム語で「イエス・キリスト」のことを指すことから、秦氏が信仰していたネストリウス派キリスト教(景教)に由来するという説もあります。
境内には弁天社のほかに、重要文化財の講堂や国宝の桂宮院がありましたが、講堂は保存修理工事中、桂宮院は現在非公開となっていて、拝見できませんでした。
さて、いよいよ宝冠弥勒の安置されている新霊宝殿です!
新霊宝殿のなかは撮影禁止なので、手元にある『京都広隆寺 弥勒菩薩』(めだかの本、毎日新聞社)の図版を掲載しつつ、感想などを記録します。
拝観チケットの小冊子を提示してなかに入ると、堂内はとても暗くて、仏像たちがよく見えません。
おまけに仏像と拝観者のあいだには柵が張り巡らされ、仏像からは2.5メートルほど離れた位置からしか見ることができないので、お顔のようすがよく分からず残念でした。
とくに、目玉の宝冠弥勒や泣き弥勒からは、5メートルほど離れて柵が設置されていたため、とても見えにくい……。
1960年に宝冠弥勒の薬指に学生が触れて、弥勒の指を折ってしまうという事件があったため、おそらく予防策を講じてのことだと思います。
私は近眼なので、眼鏡やギャラリースコープなどを持ってくるべきだったと反省しきり💦
それでもじっと目を凝らしてみていると、少しずつ堂内の暗さにも目が慣れてきて、なんとなく見えるようになってきました。
ほんとうに美しい仏さま。
どの角度から見ても美しく、いつまでも、いつまでも、観ていたい。
吸い込まれるように、目が釘付けになって、うっとりと見入っていました。
暗くて、離れた位置からしか見えないおかげで、視覚だけに頼ることなく、弥勒菩薩が放つ、穏やかで優しい「気」を全身で感じ取ることができたように思います。
とても幸せで、満たされた時間でした。
この美しい弥勒菩薩がつくられた場所については、さまざまな議論がなされています。
飛鳥時代の日本の仏像には珍しいアカマツでつくられていることから、朝鮮半島で制作されたという説。
朝鮮半島では自生しないクスノキが内刳りの背板に使用され、アカマツは日本にも自生していることから、日本で制作されたという説。
韓国国立中央博物館所蔵の金銅弥勒菩薩像に造形が似ているから、やはり朝鮮半島でつくられたという説など……。
1897年に日本ではじめて国宝に指定されたこの宝冠弥勒は、1903年に修理されて現在の姿となっています。
修理前の写真では、像の表面が厚くボッテリしていたらしく、おそらく宝冠弥勒の制作当時は現在のような姿ではなく、木彫の上に木屎漆(木粉や抹香などを混ぜた漆)が薄く盛り上げられ、仕上げに金箔が貼られていたようです。
木屎漆のモデリングが剥げた上に塑土で修復され、それがまた剥げて見苦しい姿になっていたのを、明治期の修理でスッキリとさせたのが、現在の姿とされています。
現在の宝冠弥勒が、一切の無駄をそぎ落とした「簡素の美」を体現しているのは、制作当初の装飾や漆による「ぜい肉」が経年変化や修復によって洗い流された結果なのでしょう。
広隆寺自体は何度も焼失するなか、仏像たちがこうして大切に保管されているのは、貴重な尊像を命がけで守り抜いた人々の犠牲の賜物です。
長い時の流れと、人々の篤い想いの結晶が、いまの弥勒の気品に満ちた美しいお姿なのです。
この弥勒がどこで制作されたにしても、現在のお姿は、日本の風土と歴史、そして日本人の深い想いがつくりあげてきたものだといえます。
ちなみに上の像が、広隆寺の宝冠弥勒と瓜二つとされる韓国国立中央博物館の弥勒菩薩像です。
たしかに外形上の姿勢やポーズは似ていますが、仏像のもつ精神的な深みとか、観る者の心を惹きつける霊妙な奥深さなど、似て非なるものであることは一目瞭然です。
仮に、この韓国国立中央博物館の弥勒像が日本に請来され、どこかの古寺に安置されていたとしても、いまの宝冠弥勒のように日本人の心の琴線に触れる仏像として、人々に末永く愛されることはなかったと思います。
「泣き弥勒」の通称で知られる弥勒菩薩像は、朝鮮半島では産しないクスノキを用いた一木造であることから、日本で作られた可能性が高いとされています。
この仏像の天衣の先と、左足にかかる裳裾には牛皮が用いられています。
このあとに掲載する「大酒神社」の記事でも紹介しますが、広隆寺といえば「牛祭」が有名です。
弥勒信仰の起源は、古代インド・イランで信仰されたミトラ教にあるといわれます。
ミトラ教のミトラ(ミスラ)神は、サンスクリット語で「マイトレーヤ」といい、マイトレーヤは漢訳では「弥勒菩薩」です。
ミトラ神といえば「牛を屠る」姿で描かれることが多く、ミトラ教には聖牛供儀が重要な位置を占めています。
泣き弥勒の一部に牛皮が使われているのも、ミトラ教の信仰との関連が連想され、秦氏のルーツとのつながりもこのあたりにあるのかもしれません。
新霊宝殿には他にも、十一面千手観音像や不空羂索観音立像、十二神将像などの国宝がずらりと並んでいます。
なかでもこの不空羂索観音像(奈良末~平安初期)は、高さ3.14メートルの巨大な像で、引き締まった体躯と写実的で整った顔立ち、立体的な衣紋表現など、天平彫刻の名残りを感じさせる見事な仏像でした。
充実しつつも、名残惜しく、立ち去りがたい思いで、広隆寺をあとにしました。