大酒神社

2022年11月25日(金)

広隆寺をあとにして歩くこと5分、京都三大奇祭の「牛祭」で有名な大酒神社にも訪れてみました。

鳥居

大酒神社は、もとは広隆寺の境内に鎮守の社として祀られていましたが、明治の神仏分離により、現在地に遷座された神社です。

かつては「大辟神社」「大裂神社」とも記され、「大いに荒ぶる神」として祀られていました。




社殿

大酒神社の御祭神は、秦始皇帝弓月君、秦酒公。別殿には呉織神と漢織神が祀られています。


秦氏にゆかりの深い「おおさけ神社」には、ここ太秦の大酒(おおさけ)神社のほかにも、兵庫県赤穂市坂越の「大避(おおさけ)神社」などいくつもの「おおさけ神社」が存在し、とくに坂越の大避神社は秦河勝の終焉の地とされています。


世阿弥の『風姿花伝』によると、秦河勝は猿楽を子孫に伝えたあと、うつぼ舟に乗って西方の海上に漂い、播磨国の尺師(さこし)の浦に打ち寄せられて神となり、祟りを起こしたことから、人々に祀られたといいます。その坂越(さこし)の浦にあるのが、大避神社です。


太秦の大酒神社は「酒」という字を使いますが、お酒の神さまではありません。

太秦の大酒神社の「酒」も、坂越の大避神社の「避」も、「辟」から転じたもので、「辟」には境界の意味があります。

太秦の大酒神社も坂越の大避神社も、秦氏(秦酒公、秦河勝)を祭神とし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏であることから、同じ信仰による神社とされています。


また、世阿弥の『風姿花伝』や金春禅竹の『明宿集』では、坂越を「シャクシ」と訓ませています。

柳田国男は「シャクシ(シャグジ)」とは、石神(しゃくじん)、賽の神、道祖神のことだといい、服部幸雄(『後戸の神』『宿神論』)や中沢新一(『精霊の王』)など民俗学系の研究者は、シャクシ=宿神=秦河勝摩多羅神=翁面が同体異名の存在であり、猿楽芸能者や被差別民に信仰されたと述べています。


広隆寺や大酒神社をめぐると、こうした民俗学的相関関係がおぼろげながら少しずつ見えてくるのですが、まだまだ自分の中では未整理で消化しきれていないので、説明も断片的になってしまい申し訳ないです。

これからもいろんな寺社をめぐりながら理解を深めつつ、探求していきたいと思います。







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さて、冒頭にも書きましたが、大酒神社の祭礼として有名なのが、京都三大奇祭のひとつ「牛祭」です。

牛祭は現在は休止となっていて、再開の目途は立っていないようですが、休止になる直前に、一度だけ観に行ったことがあります。


このお祭りは、大酒神社の祭礼とされていますが、前述のように神仏分離令で大酒神社が広隆寺境内から遷座してからは、広隆寺内で執り行われていました。


広隆寺の牛祭は、天台宗常行堂守護神として祀られる異形の神・摩多羅神が登場する珍しいお祭りです。

毎年10月10日の夜に、三角鼻の白い紙の面をつけた摩多羅神が白衣をまとって牛に乗り、赤鬼・青鬼の四天王を引き連れて町内を一巡したのち、薬師堂前で牛から降りて、祭文を読み上げます。

その後、摩多羅神と鬼たちは薬師堂内に駆け込みます。

かつては、厄除けになるとされる祭文や神の面を奪おうと、人々が揉み合いになって摩多羅神や四天王の面を取り上げたといいます。


Youtubeに記録動画がアップされていたので、上に貼っておきますね。


伝統的なお祭りの維持・保存は地元の人々の多大な貢献と情熱によって成り立つもの。

一度でも途絶えると、復活させるのは途方もなく困難なことになってしまいます。


だからこそ、集落の人たちの尽力によってお祭りが続いているうちに、なるべく自分の目で観て、その土地や人々の空気に触れて、記憶の中にとどめておきたいし、このほどユネスコ無形文化遺産に登録された風流踊のように、日本の数多くの民族芸能や神事が世界的にもその価値が認められ、維持・保存されるようになればいいなあと願うばかりです。