2023年4月30日
酒蔵めぐりのあとは、この日の本命だった寺田屋です。
坂本龍馬が定宿としていた寺田屋は、大坂と京都を結ぶ三十石船の船着き場を持つ船宿でした。2度にわたる寺田屋事件の舞台となった場所としても有名ですね。
大河ドラマの舞台にそのまま使えそうな素敵な建物。
現在も、宿泊できる旅館として運営されているというから驚きです。
近年、京都市の調査で驚愕の事実が判明しました。
幕末の志士が集ったオリジナルの寺田屋は、1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、現在の寺田屋はその後再建されたものだそうです。
そうなんだ……。
ちょっと残念な気がしますが、寺田屋の館内をめぐっていると、幕末の龍馬の世界にどっぷり浸ることができたので個人的には大満足でした。
オリジナルの寺田屋が建っていた場所は、いまは宿のお庭になっていて、石碑や龍馬像がたっています。
上の写真の石碑は、数々の勤王の志士たちを支援した女将・お登勢さんと寺田屋の由来を説明したもの。
ガラスに映り込んで見えにくいですが、世話好きで芯の強いお登勢さんの性格が写真からもうかがえます。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、「年上の寺田屋のお登勢にさえ、ふと愛慕の情を覚えた瞬間がないではない」と、龍馬がお登勢さんにほのかに思いを寄せているふうに描かれています。
たしかにお登勢さんは、龍馬にとって理想の女性だった乙女姉さんと、頼りがいのある強い女性という点で似ている気がします。
維新当時の井戸が残っているなんて、すごいですね。
お庭にはほかにも、寺田屋騒動の石碑、誓いの楠、坂本龍馬像などがありました。
さて、いよいよ中へ入ります。
客間の壁には里見浩太朗や加賀まりこ、山本耕史、武田鉄矢など俳優さんたちの写真や色紙などが貼られていました。
(館内は写真が撮り放題とのことなので、たくさん撮らせていただきました。)
お馴染みの龍馬の写真。
龍馬は新しいもの好きで、フランス製の香水やブーツがお気に入りでした。
亀山社中時代だけでなく、千葉道場時代の写真もあるのですね。
写真の中の龍馬はいつも、未来を見据えるように右上の彼方を見つめています。
セルフプロデュース力の高い人だったのかもしれません。
寺田屋事件には「薩摩藩の尊皇派志士が鎮圧された1862年の事件」と「坂本龍馬が襲撃された1866年の事件」がありますが、とくに1862年の事件では、この階段で激しい斬り合いがあったようです。
写真の階段は再建後の寺田屋のもので比較的広くできていますが、おそらくオリジナルの寺田屋の階段はもっと狭くて、天井も低かったのでしょう。
こんなに狭い空間で刀を振り回す死闘が繰り広げられたんですね。
二階の客室。
龍馬は寺田屋事件の際、乱闘に備えて唐紙障子をはずすようお龍に支持していますが、ふすまを取り払っても欄間が低くて、刀で討ちあうのはさぞかし不自由だったと思います。
龍馬が太刀ではなく、銃で応戦したのも納得です。
高杉晋作から龍馬に贈られたスミス&ウェッソンMⅡアーミー六連拳銃。
龍馬はこの銃で寺田屋騒動の難を逃れました。
表通りに面した窓が気持ちいい。
江戸情緒あふれる趣きのあるお部屋。
こういう旅籠の高欄って、風情があります。
勤王の志士たちも、ここから外の様子をうかがったのでしょうか。
こちらが龍馬の部屋らしいです。
床の間には、スミス&ウェッソンMⅡアーミー六連拳銃のレプリカが飾られていました。
龍馬の書画。
筆まめだった龍馬は、頭の中から湧き出る思考を流れるようにサラサラと書いています。
それに、驚くほど絵が巧い!
筆に迷いがなく、ごつごつした岩肌や風になびく枯れ枝、のんびり舟に乗る人物など、一気呵成に的確に描いています。
宮本武蔵といい、昔の剣豪は手先が器用で絵心もあったんですね。
寺田屋事件のものとされる弾痕。
こちらは刀傷。
寺田屋事件の際、お風呂に入っていたお龍が、敵方に寺田屋が包囲されているのに気づき、裏階段を素っ裸のまま駆け上がり、龍馬たちに危険を知らせたという階段。
階段をおりた廊下の右手に湯殿がありました。
『竜馬がゆく』では、お龍が入っていた寺田屋の風呂場について「湯殿は、宿のそれだからふつうの家庭のものよりも三倍ほどに広い」とあったので、もっと広いお風呂を想像していたのですが、けっこう小さいですね。
同書には「鉄砲風呂」と書いてあったので、上の写真のお風呂も鉄砲風呂でしょうか?
それとも、鉄砲風呂の名前の由来となった煙突がついていないので、五右衛門風呂かな?
この方が、若いころのお龍さん(らしきもの?)だそうです。
お風呂場の前には、京都らしい坪庭が。
寺田屋のなかには龍馬ゆかりの写真や資料があちこちに展示されているのですが、いちばん驚いたのがこの写真です。
上に写真のなかの人名が記載されていますが、最前列右手に坂本龍馬、右端に陸奥宗光、中央後方に西郷隆盛、その隣が大久保利通、小松帯刀、伊藤博文、最前列左に桂小五郎、中央列左端に勝海舟、その隣が中岡慎太郎、大隈重信など、そうそうたる顔ぶれ。
しかもこの写真が撮影されたのが、薩長同盟よりも前の1865年2~3月、第二次長州征討の最中というのだからビックリです。
この「日本の夜明け」という写真の歴史的背景が、上記のように記されていました。
各藩の勤王等の連合を計画した西郷隆盛は、1965年の2月中旬から3月中旬までのあいだに彼らを長崎に集結させ、世界情勢に明るいフルベッキ博士を皆で訪問。そのときの記念として撮影されたのが、この写真のようです。
薩長同盟よりも1年近く前から、西郷隆盛と勝海舟、桂小五郎ら、薩摩・幕府・長州の幹部がつながっていたというのは初めて知りました。
まだまだ歴史には謎が多いですね。
寺田屋から通りを挟んですぐそこに宇治川の支流が流れていて、観光用の十石舟が運航していました。
酒蔵と新緑のなかを進む十石舟、絵になりますね。
いにしえの寺田屋は、写真のように三十石船の船着き場を持つ大きな船宿でした。
江戸時代に京都伏見と大坂をつないでいた三十石船。
定員は28~30人。
大坂には、八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀の4つの船着き場があり、早朝出発して、夕方には伏見に着いたそうです。
伏見からは夜に出て、早朝大坂に着いたといいます。
上り船は人力で曳航したので、上りと下りでは運賃が倍以上違ったようです。
寺田屋の北東には、龍馬にちなんだ『竜馬通り商店街」がつづいていました。