2023年5月21日
激動の幕末にドラマの舞台となったのが、長州藩邸や土佐藩邸が建ち並んでいた高瀬川界隈でした。
明治という日本の夜明けを待たずして、テロや戦さで命を散らした幕末の志士たち。
今回は、四条小橋から高瀬川沿いを北上して、彼らの足跡をたどりました。
川底の石がよく見える、透き通った清らかな水が淀みなく流れています。
時にはオオサンショウウオも泳いでいるそうです。
飲食店がひしめく路地裏で見つけたのが「古高俊太郎邸跡」の碑。
京都で薪炭商を営みながら長州藩のスパイとして活動していた古高俊太郎は、池田田事件の発端となった人物です。
古高邸から大量の武器弾薬を押収した新撰組は、古高を壬生屯所の前川邸に連行し、逆さづりで足に五寸釘を打ち込むなどの苛烈な拷問を繰り返します。
耐えかねた古高は、ついに「尊攘派浪士たちが御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を連れ去る計画を立てている」と自白してしまいます。
これを受け、新撰組は池田屋に集まった浪士たちを襲撃し、その武名を鳴り響かせることになったのでした。
土佐藩御用達の書林「菊屋」は、中岡慎太郎や坂本龍馬など、土佐藩系の志士たちが身を寄せた場所です。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にも、菊屋の息子・峰吉が龍馬を兄のように慕い、何かと彼の世話を焼く様子が描かれています。
大政奉還から1か月後の1867年12月10日の夜、醤油商「近江屋」の2階で2人は火鉢を囲んでいました。
風邪気味だった龍馬は「暖かい軍鶏鍋が食べたい」と、菊屋の峰吉に鶏肉を買いに行かせます。
峰吉が出かけたあと、数人の男たちが近江屋に押し入り、隙をついて竜馬らを襲撃。龍馬は絶命、中岡慎太郎も2日後に亡くなりました。
使いから帰ってきて変事を知った峰吉は、自刃しようとしますが、駆け付けた板垣退助に制止されます。
龍馬の敵討ちとなった天満屋騒動のときには、峰吉が敵情偵察に活躍したといいます。
激動の幕末を飛龍のように翔け抜け、天命を果たした龍馬。
儚く、短い生でしたが、すべてを燃やし尽くし、燃焼しきったのかもしれません。
越後出身の勤王の志士・本間精一郎は、清河八郎や吉村寅太郎らと連絡を取りながら、尊攘運動に励んでいました。
のちに佐幕派と通じた裏切り者として命を狙われ、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵や田中新兵衛らに暗殺されてしまいます。一説では、本間精一郎襲撃は武市半平太の画策によるものとされています。
ここは江戸時代に土佐藩邸があった場所。高瀬川には土佐橋がかかっていました。
武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎ら土佐藩出身の志士が出入りしていました。
勝海舟のとりなしによって脱藩の罪を赦された龍馬でしたが、その後、この土佐藩邸で7日間の謹慎を命じられたといいます。
かつて土佐藩邸内にあったお稲荷さん。
もとは鴨川の中洲の端にあったため「岬神社」とも呼ばれます。
明治の廃藩置県で土佐藩が消滅し、それにともない土佐稲荷も他の場所に移転しましたが、その後、地元の商人が土佐藩邸跡近くのこの場所を買い取り、土佐稲荷を呼び戻したそうです。
土佐稲荷には坂本龍馬や中岡慎太郎もお参りをしていたことから、境内には龍馬像が安置されています。
三条大橋のすぐそばに建つ酢屋は1721年に創業した材木商で、坂本龍馬ら海援隊士たちが潜伏していた場所でもありました。
竜馬は亡くなる半年前まで酢屋で暮らしていましたが、新撰組や見回り組に命を狙われていたため、土佐藩邸により近い近江屋へと転居します。
(用心して近江屋へ移った龍馬でしたが、暗殺されたのはその1か月後のことでした。)
竜馬たちが潜伏していた酢屋の2階は、現在「ギャラリー竜馬」として公開されているようです。
池田屋事件は前述の通り、長州藩の間者だった古高俊太郎が拷問の末、長州藩のテロ計画を自白したことに端を発します。
浪士たちが池田屋の2階に集結したところを、近藤勇ら新撰組に襲撃され9名が死亡、4名が捕縛されました。
この池田屋事件をきっかけに、長州藩は朝敵へと転落し、新撰組は武名を挙げていったのでした。
「池田屋騒動之址」の石碑が立つ場所は、現在は居酒屋はなの舞「旅籠茶屋 池田屋」になっています。
「旅籠茶屋」と銘打つように、東映太秦映画村監修のもと、映画のセットさながらに幕末の旅籠の雰囲気が再現されているそうです。
三条河原に橋が最初にかけられたのは室町時代。その後、豊臣秀吉によって石柱の橋に改修されました。
江戸時代には東海道五十三次の起点となり、近くの高瀬川の船運とともに、この地は交通の要衝となりました。
橋のたもとには、弥次さん喜多さんの像がたてられています。
現在の三条大橋の本体は1950年に改築されたものですが、擬宝珠の多くは豊臣時代のもの。
西から2番めの擬宝珠には池田屋事件で付けられたとされる刀傷が残っています。
平安時代から幕末まで、鴨川の三条河原から六条河原までは処刑場でした。
三条河原で晒し首になった有名な人物には、石川五右衛門や豊臣秀次、石田三成、近藤勇らがいます。
秀吉に謀反の疑いをかけられた秀次は、高野山で切腹。彼の首は三条河原に晒されました。その首の前で、秀次の妻子・妾・侍女など39名が処刑され、秀次の首とともに彼らの遺体も1か所にまとめて埋められ、そこに塚が築かれました。
秀次の死から16年後、京都の豪商・角倉了以が私財を投じて高瀬川の開削工事を行います。
工事の途中で、秀次たちの塚が荒廃しているのを発見した角倉了以は、浄土宗西山派の僧の協力を得て、秀次一族の菩提を弔うために寺院を建立しました。
瑞泉寺の境内は、三条大橋の喧騒が嘘のように、ひっそりとした静かな場所でした。
この寺院を建立した角倉了以も、このお寺の空気のように穏やかで、慈悲深い人だったのでしょう。
昔から歴史の転換期には多くの血が流れてきました。
どうか、やすらかに、お休みください。
鴨川の西河原だったこの地には、平安時代には貧民や孤児の救済施設「悲田院」がありました。
江戸時代には、高瀬川を開削した角倉了以の孫・角倉平治(嵯峨角倉氏の初代当主)の屋敷が建てられ、その後、対馬国大名・宗氏が邸宅を営んだそうです。
宗氏は江戸時代の日本において朝鮮と通交した唯一の大名で、徳川将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が来日した際には、宗氏がその受け入れと警護を担いました。
そうした歴史深い場所の一角に、桂小五郎とその愛人だった芸妓・磯松が暮らしていたようです。
坂本龍馬・中岡慎太郎・武市半平太とともに「土佐四天王」と呼ばれた吉村寅太郎。
彼は孝明天皇の大和行幸にあわせて天誅組を組織し、大和国で挙兵したものの、幕府軍の攻撃により戦死したといいます(享年26)。
吉村寅太郎寓居跡のすぐ隣にあるのが、武市半平太が京都での宿舎にしていた料亭・丹虎跡です。
武市半平太は坂本龍馬とは盟友でしたが、龍馬が早くに藩制度という身分制に見切りをつけて土佐藩を飛び出したのに対し、武市半平太はあくまで土佐藩にこだわり、土佐藩のなかで改革を行なおうとしました。
藩の実権を握っていた吉田東洋の暗殺など、テロや暗殺によって時代を変えようとした点が、龍馬との大きな違いです。
武市半平太の門弟で「人斬り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵や薩摩藩士・田中新兵衛による天誅事件の背後には、半平太の関与もあったとされています。
とはいえ、武市半平太が起草し、土佐藩主豊範の名で朝廷に提出された建白書には王政復古などが盛り込まれ、時代を先取りする思想の持ち主だったようです。
漢学者だった佐久間象山は西洋式の兵学をいち早く研究し、ペリー来航の10年も前に「海防八策」をまとめて幕府に提出した人物です。彼が開いた塾には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門し、砲術や兵学を学んでいます。
大村益次郎は大阪の適塾で蘭学を学び、兵学の専門家となって、長州征伐や戊辰戦争の際には参謀・軍師を務めました。
佐久間象山も大村益次郎も西洋の兵学を積極的に取り入れて、明治の礎を築いた偉人ですが、過激な攘夷派から「西洋かぶれ」と批判され、三条木屋町で暗殺されてしまいます。
佐久間象山の石碑は武田五一の設計で、彼の功績を称えるように豪華なデザインになっています。
1611年、京都の豪商・角倉了以は私財を投じて高瀬川を開拓しました。彼は保津峡の開発なども手がけています。
二条から五条にかけて7つの船入り(荷物の積み下ろしをする船だまり)があり、この一之船入はその起点となった場所です。ここから取水された鴨川の水は高瀬川の流れとなって、伏見まで下っていきます。そして、伏見からは三十石船で淀川を下って大坂まで行くことができました。
高瀬川沿いの道が「木屋町通」と呼ばれるのは、船運を利用した材木屋などの問屋が軒を並べて賑わっていたからだそうです。
高瀬川開削と同じ1611年、角倉了以によって高瀬川源流庭苑としてこの別邸がつくられました。
明治以降は、山縣有朋の別邸・第二無鄰菴となり、その後、日銀総裁・川田小一郎の別邸など所有者を変え、現在は「がんこ二条苑」となっています。
明治初期、この地で仏具製造業を営んでいた初代島津源蔵は、教育用理化学機械のメーカーへと転身します。
この島津製作所創業記念資料館は19世紀末に建てられたもので、1919年(大正8年)まで島津家の自宅兼本店として使われていました。
1999年には国の登録有形文化財に、2007年に近代化産業遺産に認定されています。
一見、木造二階建の町家建築に見えますが、窓の上部にはステンドグラスがはめ込まれるなど和洋折衷様式になっています。
玄関扉に施された丸や四角の幾何学的な装飾は、ウィーン分離派を彷彿とさせます。
「日本」の文字をデザイン化したステンドグラス。
桜をあしらうなど日本らしさがさりげなく演出されています。
幕末の長州藩邸には勤王の志士が数多く集い、坂本龍馬もひんぱんに出入りしていました。
しかし長州は、会津や薩摩との武力衝突となった禁門の変で敗れてしまいます。長州系の藩士・浪士たちはこの藩邸を焼き払い、京都から逃亡したといいます。
京からの脱出劇を見事に演じきったのが「逃げの小五郎」こと桂小五郎でした。
ある時は按摩、ある時は物乞い、またある時は荒物屋と、さまざまな人物になりすまし、さまざまな女たちと関係をもちながら、日本の夜明けまで生き延び、明治の元勲として大久保利通、西郷隆盛とともに「維新の三傑」として称えられるまでになったのです。
長州藩邸跡に建つホテルオークラには、この地にゆかりの深い長州藩士として桂小五郎像が建てられています。
明治維新の前に命を散らした幕末の志士たちの足跡を追っていくと、まさにサヴァイヴァルゲームだったんだなあと思います。
累々たる彼らの屍を礎として明治以降の日本が築かれたという、歴史の奥深さと彼らの熱い息吹を感じることのできた、密度の濃~い高瀬川散策でした。