2021年11月28日(日)
コロナも収まり、観光シーズンの京都は混むため、近場の穴場を探して勝竜寺城公園へ。
JR長岡京駅から徒歩5分。予想以上に充実した城跡公園になっていてテンション上がります😊
勝竜寺城は、1571年に細川藤孝(幽斎)が織田信長の命を受け、それまであった仮設の砦を、当時最先端の城郭につくりかえたもの。
(勝竜寺城の城主となった藤孝は、名を「長岡藤孝」と改めます)。
信長の安土城築城に先駆けて「瓦葺き」「石垣」「天守」など、近世城郭の標準となる諸要素を取り入れたのが勝竜寺城でした。
細川藤孝の嫡男・忠興のもとに輿入れした明智光秀の娘たま(のちの細川ガラシャ)も、この最新の城で新婚生活を送ったといいます。
しかし、それからわずか4年後、本能寺の変が起きて事態は一変します。
山崎の合戦に敗れた光秀は、この勝竜寺城に一時退却し、坂本城へ向かう途中、落ち武者狩りに討たれて無念の死を遂げたのです。
たぶん長岡京市は、昨年の大河ドラマ『麒麟がくる』で町おこしをするつもりだったんじゃないかなー。
上の写真は、天守閣が建てられていたと想定される場所から南門の橋を見下ろしたところ。
濠を渡って門に集中する敵兵を、上方側面から射撃する「横矢掛かり」として機能していたようです。
勝竜寺城は、京都盆地の南西部に位置し、西国街道と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を押さえ、淀川水系にもほど近い、交通の要衝に立地します。
織田信長が勝竜寺城の改修を命じたのも、おそらく京都を支配するうえでこの地が重要だったからでしょう。
庭園が整備され、天守のレプリカのなかは歴史ミュージアムになっています。
細川忠興とガラシャ像。
毎年11月の第二日曜日には、忠興とたまの婚礼を再現した「長岡京ガラシャ祭」が開催され、新郎新婦や婚礼を祝う町衆に扮した約1000人の人々が街中を練り歩くそうです。
敵を狙って弓矢や鉄砲などで攻撃する「狭間」も再現されていました。
勝竜寺城では、石垣に転用されたとみられる石仏や五輪塔・宝篋印塔などが多数出土しています。
石仏の大半は大日如来。なかには地蔵菩薩も。
当時は石垣を備えた城がまだ珍しく、積載の供給体制も整っていなかったため、身近な石造物を転用したと考えられています。
くつろげる落ち着いた空間。
人も少なく、ミュージアムも入場無料なので、まさに穴場中の穴場でした。
歴史好き、お城好きの人にはオススメです。
勝竜寺城は細川藤孝の改修によって、「惣構(土井などの防御施設)」をもつ城郭となります。
現在は発掘された遺構をもとに、土塁・空堀跡が復元されていました。