2024年1月6日(土)
日本神話に登場する初代皇后は、摂津国三島を本拠とした三島溝咋一族の娘とされています。
茨木市五十鈴町には、溝咋一族を祀る溝咋神社が鎮座しています。
溝咋神社の創建は不詳ですが、社伝によると、崇神天皇(実在した可能性のある最初の天皇)のころに創建されたとされています。
溝咋の「溝」は水路、「咋」は水路を支える杭を意味することから、古代においてこの三島地域は農業の先進地だったようです。
また、溝咋神社の近くの東奈良遺跡からは36点もの銅鐸鋳型が見つかっていることから、この地は各地に銅鐸を供給した銅器の一大生産地だったと考えられています。
この安威川が、溝咋神社にまつわる神話において重要な役割を果たしています。
安威川には白鷺や鴨など水鳥もたくさんいました。
溝咋神社の一の鳥居をくぐって、長い松林の参道を通っていくと、
二の鳥居が見えてきました。
一の鳥居・二の鳥居をくぐり、さらに神門によって結界の張られた神域へと入っていきます。
神門の左右にはそれぞれ随臣像が守護していますが、随臣像の烏帽子にご注目ください。
十字が彫られていまますね。
キリシタン大名・高山右近が高槻城主だったころ、この三島の地域は日本におけるキリスト教の中心地のひとつでした。領内の大半がキリシタンだったともいわれています。
しかしその後、キリスト教が禁止されました。
隠れ切支丹となった人々が秘かに信仰の対象とするために、随臣像の烏帽子に十字を刻んだのかもしれません。
手水舎にはお正月らしい花手水が生けられていました。
溝咋神社の主祭神は、神武天皇皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)と、その母・玉櫛媛です。
神武天皇の皇后にまつわる神話については『古事記』と『日本書紀』では異なる部分があるので以下にまとめます。
①『古事記』では、大物主神が三嶋溝咋の娘である勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ=玉櫛媛)を見初め、丹塗矢に変身して、厠で用を足していた比売の御陰(ほと)を突き、そうして生まれた富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライスズキヒメ)が神武天皇の后になったと記します。
②『日本書紀』では、事代主神(大国主の子)が八尋熊鰐となって三島溝櫛姫(玉櫛媛)のもとに通い、そのあいだに生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)が神武皇后の后になったと記します。
(八尋熊鰐は安威川をさかのぼって姫のもとに通ったのですね。)
母娘ともその名に、金属精錬で使用する炉やフイゴ意味する「タタラ」がついているのは、溝咋神社(東奈良遺跡)周辺が銅鐸など銅器の一大産地だったことに由来すると思われます。
また、神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)の「五十鈴媛」とは「たくさんの鈴がついているヒメ」という意味で、たくさんの鈴(銅鐸?)の音色によって神霊を招き、神とつながった巫女的な女性だったことが推測されます。
つまり、日本の初代皇后は、卑弥呼のような霊性を帯びた巫女的な存在だったと考えられるのです。
溝咋神社には2柱の主祭神のほかに、媛蹈鞴五十鈴媛の祖父「溝咋耳命」、媛蹈鞴五十鈴媛の兄「天日方奇日方命」、媛蹈鞴五十鈴媛の祖「素戔嗚尊」、そして「天児屋根命」が祀られています。
藤原氏(中臣氏)の祖・天児屋根命が祭神となっているのは、この三島地域が中臣氏の居住地だったからかもしれません。藤原鎌足も乙巳の変の前は三島の別荘に隠棲していましたし、鎌足の墓とされる阿武山古墳も三島地域にあります。
摂社の事代主神社。
御祭神は事代主命、迦具土(カグツチ)神、奥津彦神・比売神、ミヅハノメノカミ(水神)、ハニヤスビコ・ハニヤスヒメ(土の神、造園の神)。
事代主以外の神々は明治時代に近隣村の祭神が合祀されたもののようです。
同じ三島地域の高槻市には事代主を奉斎する三島鴨神社があります。
事代主が三嶋溝櫛姫のもとに通ったという『日本書紀』の神話にもとづいて、明治期までは三島鴨神社から溝咋神社への神輿渡御が行われていたそうです。
神話の世界を再現した祭礼、復活してほしいですね。
食物の神さま・保食神(うけもちのかみ)を祀る神社。
天岩戸をこじあけた手力雄神を祀る神社。
神武天皇の皇后が御祭神だけあって、末社も国津神系が多いですね。
かつては池だったであろう場所に建つ厳島神社。
木花開耶姫、級長戸辺神、市杵島姫命、菅原道真が祀られています。
「なぜ菅原道真?」と思ったら、明治時代に近隣にあった天満神社が市杵島神社に合祀されたようです。
木花開耶姫命社の社殿は2体の隋臣像が守護していて、とても立派なつくりでした。
知る人ぞ知る溝咋神社でしたが、神話の面影を濃厚に留めていて、古代史ロマンがたっぷり詰まった神社でした。