2022年10月30日(日)
京都大学創立125周年記念京大ウィークス2022の一環として京大防災研究所・阿武山観測所が特別公開されていました。
今から92年前の1930年に創設された阿武山観測所。
20世紀前半のモダニズム建築の面影を今に伝える貴重な建物が、耐震・改修工事を経て、現役で使われています。
アールデコ調の照明や直線的な窓のシルエット。
旧京都帝国大学の威光を感じさせる重厚感のあるデザイン。
窓の外の緑と調和した内部空間。
今回の特別公開では、京大防災研究所が開発した電磁式地震計「満点地震計」の開発秘話や成果などの講演もあったようです。
私たちは時間がなかったので講演はパスして、代わりに、歴代地震計の展示を拝見しました。
↑こちらは、1940年にドイツのミエル・ウィーヘルトが開発した機械式地震計の最高傑作「ウィーヘルト地震計」。
地震の少ないドイツでは、遠方の地震も探知できる非常に感度の高い地震計がつくられました。
日本で普通に起きる地震では測定器の針が振り切れてしまうそうです。
↑「地震学の父」と謳われた大森房吉博士が1898年に開発した大森式地震計。
大森博士は地震や火山噴火の予知を日本で先駆的に研究し、その功績から1916年に日本で初めてノーベル賞候補にノミネートされました。
しかし、学会のためオーストリアに滞在している最中に関東大震災が起き、「大地震を予知できなかった無能な地震学者」と世間から大バッシングを受けたまま、地震発生の2か月後に脳腫瘍の悪化で急逝されたそうです。
日本のために尽くし多大な功績を残した人が、正当な評価を受けることなく、非難を一身に背負ったまま儚く世を去ってしまう……今も昔も、こうしたことが何度繰り返されてきたことだろうと思うと、ほんとうにやりきれない気持ちになります。
大森博士の悲劇について書かれた上山明博著『地震学をつくった男・大森房吉』(青土社)という本があるらしいので、ぜひ読んでみようと思います。
↑こちらはアメリカのマークプロダクツが1950年に開発した小型軽量地震計。
この地震計は地震研究だけでなく、石油や天然ガスなどを探すための地下構造の探査にも使用されています。
↑京大防災研究所が2008年に開発した世界最小・最軽量の地震計「満点地震計」。
手のひらサイズの筺体に、東西・南北・上下の3成分の地震計を入れ込むことに成功し、小型化の技術で特許も取得。
小型化・軽量化したことにより、人里離れた山中や雪に埋もれる場所など、どんな場所にも設置可能になり、コスト削減にもつながったそうです。
画期的ですね。
私自身は、阪神淡路大震災、東日本大震災、大阪北部地震など大規模地震を3度経験していますが、この国で生きているかぎり地震と付き合っていかなければならないので、地震研究・地震対策は必要不可欠。研究者の方々の日々の努力の片鱗をこうして拝見できたのは貴重な体験でした。
災害だけでなく、あらゆる有事においていちばん大事なのは、国民ひとりひとりの心構えなんでしょうね。
さて、展示室を出て、屋上まで続く階段を上がっていきます。
ここの吹き抜けも素敵でした。
狭い階段を上って屋上に出ると視界が開けて、大阪平野を一望するパノラマの世界が飛び込んできます。
これには感動でした!
梅田の高層ビル群や遠くのあべのハルカスまでよく見えます。
きっと夜になるとダイヤモンドを散りばめたような美しい夜景が広がるのでしょうね。
こちらは生駒山でしょうか。
思ったよりも、大阪の中心部が近く感じられます。
秋らしい清々しい空気と空、明るく広がる壮大な景色、とても気持ちのいい場所です。
観測所から2分ほど阿武山を登ったところに阿武山古墳があるので、こちらにも行ってみました。
阿武山古墳は、1934年に阿武山観測所の地下から石室が偶然発見され、棺のなかから60歳前後の男性のミイラ化した遺骨が出てきて大変話題になったそうです。
遺体の埋葬方法や豪華な副葬品などから、被葬者が皇室につながる可能性のある高位の人物だと推測されたため、「貴人の墓」はすぐに埋め戻されました。
埋め戻される前に撮影されたX線写真から、被葬者が腰椎などを骨折する大けがをしていたことが判明しました。
また、高価な漆の棺に葬られていたことや玉枕が敷かれていたこと、さらに冠の刺繍糸らしき金の糸が残っていたことから、当時の最高冠位である織冠を授けられ、落馬が原因で亡くなった藤原鎌足が被葬者なのではないかとも言われています。
石室のなかには、漆で布を何層にも固め、外を黒漆・内を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)という豪華な棺が納められています。
とはいえ外から見ると、上の画像のように何の変哲もない、土が少し盛り上がった雑木林のようになっています。
この場所で、静かに、ひっそりと、永遠の眠りについていらっしゃるのですね。