2023年6月17日(土)
古民家カフェ「長谷路」でのランチのあと、いよいよ長谷寺へ。
この時期、近隣の岡寺・壷阪寺とのコラボ企画「大和三大観音あぢさゐ回廊」が開催されていて、紫陽花めあてに多くの人が訪れていました。
参道でも、参道の階段でも、山の斜面でも紫陽花が見頃です。
仁王門は平安時代に創建されましたが、その後何度も焼失し、現在の仁王門(重文)は1885年に再建されたもの。
仁王門をくぐるといきなり見えてくるのが、かの有名な登廊。
古代の長谷寺の参詣路は、現在の登廊とは異なる場所にありました。
かつては『源氏物語』の玉鬘十帖で知られる「二本(ふたもと)の杉」を通って登り、「嵐の道」を経て本堂の西側に回り込んで参詣したようです。
現在の登廊の参詣ルートは、946年に菅原道真が、この地に影向したことに始まります。
『長谷寺験記』によると、菅原道真は門前の「切石の御旅所」に出現し、そこから初瀬川に下りて沐浴したのち、桜馬場を通って道明上人御廟所に参り、さらに現在の登廊のルートを通って本堂に入ったといいます。
その後、1039年に菅原道真の参詣ルート跡に登廊が建てられました。
現存の登廊は近世以降に再建されたものです。
まるで龍の胎内を進んでいくような気分にさせる登廊。
屋根の垂木が、龍のあばら骨のように見えます。
蛇の古語「ハハ」は畳語で、それ以前には、蛇は「ハ」と呼ばれていたそうです。
蛇神信仰のある初瀬山・三輪山をめぐる初瀬川の原語は「蛇背(はつせ)川」と考えられます。
また、長谷寺の本尊・十一面観音は水源近くに祀られることの多い「水の神仏」でもあることから、登廊は水の神である「登龍」をかたどったもののようにも思えてきます。
登龍に導かれるように曲がりくねった登廊のなかを通って、水とゆかりの深い十一面観音にお参りするという、特殊な趣向が長谷寺には仕掛けられています。
いにしえの参拝ルートだった「嵐の坂」はさまざまな紫陽花で彩られていて、若い人たちであふれていました。
紫陽花が大好きなので、テンション上がります⤴
紫の紫陽花、きれいだなあ。
しばし紫陽花の写真をお楽しみください。
透き通るような薄い青紫の紫陽花も清楚で爽やか。
紫陽花を鑑賞しているうちに本堂に到着。
長谷寺の本堂は、本尊を安置する「正堂(しょうどう)」と参拝のための「礼堂(らいどう)」、外に張り出した「外舞台」とに分かれています。
現在の本堂は1650年に再建された8代目。国宝に指定されています。
夢の託宣で知られる長谷寺には、平安時代に貴族がこぞって「初瀬詣で」をしたことが『枕草子』や『源氏物語』『更級日記』『蜻蛉日記』に描かれています。
長谷寺で見た夢のお告げのご利益は、中世説話の『わらしべ長者』などでも有名ですね。
私もいちばん叶えたい願い事をお祈りしてみました。
手を合わせてお祈りした後、ふと見上げると、高さ10メートルの十一面観音さまが優しく見下ろしてくださっていて……私の胸のうちを分かって下さるような眼差しをした観音さまと、目が合ったような気分になりました。
参拝者の心に寄り添ってくださっているように思わせてくれるお姿は、優れた仏像のあかしだと思います。
本尊の両脇には、難陀竜王と雨宝童子の立像が安置されています。
難陀竜王は能《春日龍神》としても知られる龍神様で、頭上に龍を戴き、唐服を着用。
雨宝童子は、初瀬山を守護する八大童子の一人で、凛々しい美少年のようなお姿をしています。
雨宝童子が天照大神の化身として信仰されているのは、天照大神が初めて降臨した「元伊勢」とされる与喜山がこの近くにあることと関係があるのかもしれません。
薄暗い堂内から外舞台へ。一気に視界が開けます。
夏山の緑がまぶしい。
清水の舞台と同じ縣造の外舞台。
右手には五重塔が見えています。
素晴らしい建築ですね。
大和らしく、こんもりした夏山の風景が広がります。
空気が美味しく、開放感もあって、素敵な場所でした。
本堂から西側の西の丘へいくと、長谷寺創建の場所に「本長谷寺」のお堂が建っていて、さらに西に進むと五重塔が見えてきます。
青モミジに赤い五重塔が映えますね。
本堂の東の丘には、この地の地主神だった三社権現(瀧蔵権現)社が鎮座しています。
向かって右が石蔵権現、中央が瀧蔵権現、左が新宮権現。
石蔵権現は本地・地蔵菩薩の仮の姿である比丘の姿で、瀧蔵権現は本地が虚空蔵菩薩なので老父の姿、新宮権現は薬師如来が本地なので女性の姿で現れるとされています。
946年に菅原道真が長谷寺に影向した際には、地主神の座を道真に譲ることになるのですが、今でも瀧蔵権現は元祖・地主神として人々の信仰を集めています。
朱塗りが剥落した春日造の社殿には、神さびた趣きがあり、霊気が漂っていました。
三社権現の前には舞殿(拝殿?)らしき建造物があり、緑深い山々の景色を額縁のように切り取っています。
399段の登廊を上り詰めたところに建つ鐘楼。
この鐘については、藤原定家が「年も経ぬ 祈る契りは初瀬山 尾上の鐘のよその夕暮れ」と詠み、藤原家隆も「初瀬山 谷吹きのぼる山風に 尾上の鐘も声むせぶなり」と詠んだことから、「尾上の鐘」と呼ばれています。
現在の鐘楼は1650年に再建されたもの。
長谷寺(初瀬)を主題にした歌のなかで真っ先に思い浮かぶのが、百人一首にも入っている「うかりける人をはつせの山おろし はげしかれとは祈らぬものを」(源俊頼)です。
ほかにも数多くの歌に詠まれていて、長谷寺が平安貴族に親しまれていたのがよく分かります。
尾上の鐘から登廊を下りていく途中にも、さまざまな祠や名所旧跡が残されていました。
本堂東南脇の傾斜地に建つのが、春日造の三百余社。
小ぶりながらも立派な社殿です。
ここに祀られた三十番神が毎日交代で本尊を守護したといいます。
1730年には、さらに大小諸神が勧請されたそうです。
気づかずに通り過ぎてしまうくらい、さりげなく佇む馬頭夫人のお社には、時空を超えた伝説があります。
中国・唐の時代、僖宗(きそう)皇帝の四番目の妃が、ある朝目覚めると馬のような長い顔になっていました。悲しみに暮れた彼女は、音に聞く長谷寺の十一面観音に使者を派遣して祈りを捧げます。すると、その願いは聞き届けられ、馬頭夫人は美貌を取り戻します。長谷寺にはお礼として、宝物と牡丹の苗が奉納されたと伝わります。
当時の牡丹は薬用として使われていたそうですが、この故事にあやかって長谷寺には牡丹の花が植えられるようになり、花の名所として知られるようになりました。
紀貫之の叔父は長谷寺の塔頭に共住したことがあり、貫之も幼少期にこの寺に住んでいて、その時に梅を植えたといいます。
現在の梅は貫之の時代から代替わりをしていますが、貫之の歌「人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける」にちなんで「古里の梅」と呼ばれています。
「古里の梅」以外にも、境内には藤原定家塚や藤原俊成碑をはじめ歌碑や句碑がいくつも残っています。
こちらも登廊の途中に立つ天狗杉。
昔、長谷寺の杉山には天狗たちが棲んでいて、夜な夜な悪戯をして僧侶たちの修行の邪魔をしていたそうです。
寺の僧・英岳は天狗の悪戯にもめげずに一心不乱に修行に励み、60歳を超えて大僧正になりました。その後英岳は、寺の建造や修復に使う木材にするべく杉を伐採して天狗たちを追い込んでいくのですが、最後の一本になったときに「自分が修行に励むことができたのも天狗たちのおかげだ」として、一本だけ残すことにしたのが、この天狗杉だといいます。
登廊を下りる途中から左折して鬱蒼と茂る木立を進んでいくと見えてきたのが、『源氏物語』の玉鬘十帖に登場する「二本(ふたもと)の杉」です。
光源氏の恋人だった夕顔の忘れ形見である玉鬘は、九州で美しく成長したのち、京の都へ上り、紆余曲折を経て長谷寺へ参詣します。そこで、亡き母のかつての侍女で、今は光源氏に仕える右近と劇的な再会を遂げるのです。
「二もとの杉のたちどを尋ねずば布留川のべに君を見ましや」と右近が詠めば、「初瀬川はやくのことは知るらねども今日の逢瀬に身さへ流れぬ」と玉鬘が返して、二人は再会を喜び合います。
『源氏物語』の時代にすでに大きな杉木だったとすれば樹齢千数百年にはなっているはず。それにしては現在の二本の杉は細いような気がしますが、代替わりをしているのかもしれませんね。
幹に手を当ててみると、穏やかで優しいパワーが伝わってきました。良い「気」が流れています。
この二本の杉を通る小道こそが、登廊ができる前に使われていた旧参道であることを思えば、平安貴族たちがこの道を通って長谷詣でをしたのだなあと感慨深いものがありました。