2023年11月23日(木)
来年の大河ドラマは紫式部が主役の『光る君へ』なのでブームが訪れる前に、一足早く『源氏物語』宇治十帖ゆかりの地をめぐってみました。
「宇治十帖」は『源氏物語』のスピンオフ的な部分で、紫式部が作者でないとする説もあるほど謎の多い作品です。
光源氏の子(薫)と孫(匂宮)という二人の貴公子と、政争の果てに零落した宮様の三姉妹(大君、中君、浮舟)を中心に、もつれにもつれた愛憎劇が宇治の地で展開していきます。
『源氏物語』はもちろんフィクションですが、人々は現実の出来事であるかのように夢想し、物語にちなんだ「宇治十帖の古蹟」を宇治各地に定めました。
今回は、宇治川周辺の神社仏閣をめぐりつつ、宇治十帖の古蹟をいくつかたどってみます。
紫式部像の手前にたつのが、宇治十帖の最終巻「夢浮橋」(『源氏物語54帖』)の古蹟です。
「夢浮橋」の巻では、死んだと思っていた愛人の浮舟が実は生きていたことを聞いた薫が、浮舟の弟に文を託します。しかし浮舟は、自分は浮舟ではないと言い張り、薫との復縁を拒みます。薫は誰かが浮舟を恋人にして隠しているのではないかと疑い、どこか宙ぶらりんのモヤモヤとした空気感のなか、長い物語が幕を閉じるのでした。
「法(のり)の師とたずぬる道をしるべにて 思はぬ山にふみまどふかな」
「夢浮橋」の巻のこの歌は、源氏物語の最後の歌です。
生来、思索的な薫が仏の道を希求しながらも、俗世の愛憎に振り回されてしまう━━そんな心情を詠んだ歌ともとれますが、同時に『源氏物語』の読者たる我々衆生の迷いの心をあらわしているようにも思えてきます。
きれいな眺めですね。
向こうに見えるのが、朝霧橋と橘橋で、その間にある中洲が橘島です。
橘島は「橘の小島」として宇治十帖に登場します。
右手に宇治橋の出っ張りが見えますが、これは「三の間」といい、この突き出た場所から豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませたと伝えられています。
また、あとで行くことになる橋姫神社は、もとはこの「三の間」に祀られていたそうです。
宇治橋を横から見た図。「三の間」の出っ張りが分るでしょうか?
ここから秀吉が宇治川の名水を汲み上げたという千利休作の釣瓶が残っていて、これから行く「通園茶屋」に保存されています。
宇治橋を渡ったところにある通園茶屋。
現在の通園茶屋の建物は1672年に建てられたものですが、創業は(ナント!)平安時代末の1160年にまでさかのぼります。初代通園は、源頼政の家臣の武士で、宇治橋東詰のこの地に庵を結び、「太敬庵通園政久」と名乗ったそうです。ここから「通園」の歴史が始まります。
初代通園は、1180年の承久の乱で主君頼政のもとにはせ参じます。宇治川の合戦で敗れた頼政が平等院の扇ノ芝で自害したあと、初代通園も討死したといいます。
狂言《通園》は、頼政と初代通園の主従関係を軸に、能《頼政》をパロディ化したもの。頼政が戦さで「討ち死に」したように、通園は大勢の客に茶を点すぎて「点て死に」するというナンセンスなお話です。
室町時代には8代通園が同朋衆(茶坊主)として足利義政に仕え、さらに安土桃山時代には10代・11代通園が豊臣秀吉から宇治川の水を汲み上げる役目を仰せつかります。
店内はこんな感じで古い茶壷や茶道具が並んでいます。
右手の緋毛氈の上に載っている「釣瓶」らしきものが、秀吉が宇治川の名水を汲み上げた利休作の釣瓶でしょうか? それっぽいですよね。
お店の人に聞きたかったけれど、皆さん忙しそうにしていて聞けずじまいでした。
京都の老舗創業番付では、通園茶屋(平安時代末創業)は西の大関なんですね。
先月、北野天満宮に行った時に立ち寄った長五郎餅(秀吉の北野大茶会で供された菓子)も東の十両だとしてランクインしています。
今年の秋は、暑い日と寒い日が交互に来て変則的だったので、紅葉も中途半端な感じで、青紅葉からいきなり茶色い枯葉になる樹木が多かったようです。
そんななかでも、日当たりのいい場所では美しく色づいていました。
短い秋の色。きれいですね。
先ほど宇治橋から見えた朝霧橋のたもとにある宇治十帖のモニュメント。
薫にライバル心を燃やす匂宮が、薫の愛人・浮舟を抱きかかえて橘の小島へと舟に乗って連れ出すシーンをモチーフにしたもの。
この場面で浮舟は、次のような歌を詠んでいます。
「橘の小島は色もかはらじを この浮舟ぞ ゆくへも知られぬ」
その名のごとく、水面を漂う浮舟のような寄る辺のない我が身を詠んだ彼女の不安な心が、このモニュメントの浮舟の姿にもあらわれている気がします。
朝霧橋を渡って、匂宮と浮舟の逢瀬の地「橘島」へ向かいます。
まさに宇治十帖の世界を追体験できる場所ですね。
ここが宇治川の中州「橘島」です。きれいな景色ですね。
朝霧橋の向こう岸のたもとに宇治神社の赤い鳥居が見えます。
最初の合戦は、以仁王と源頼政の謀反による1180年の「橋合戦」。先述の通園茶屋の初代通園はこの合戦で討ち死にしています。
2つめの合戦は1184年に起こった木曽義仲軍と源範頼・義経軍との「宇治川の戦い」です。
「宇治川の戦い」では、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が競い合った「宇治川先陣争い」が有名です。
高綱と景季は、それぞれ頼朝から拝領した名馬「池月」と「磨墨」に乗って宇治川の急流に乗り入れ、池月に乗った高綱が先人の名乗りを上げました。
二度にわたる宇治川合戦で歴史の渦中にあった宇治川ですが、いまは穏やかに流れるこの大河を観ていると、まさに「兵どもは夢のあと」という思いがします。
橘島から橘橋を渡って、平等院のある左岸へ向かいます。
平等院は以前に訪れたことがあるので、今回はパスして、お目当ての橋姫神社へ進んでいきます。
橋姫神社とともに、宇治十帖の橋姫之古蹟もありました。
宇治十帖「橋姫」巻(『源氏物語』45帖)では、宇治に隠棲している八の宮を尋ねた薫が、晩秋の月夜に二人の美しい姫君(大君と中君)の姿を垣間見る様子が描かれています。
大君に心惹かれた薫は、次のような歌を大君に贈ります。
「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れるる」
宇治の橋姫のようなあなたの心を思うと、私の袖も涙で濡れてしまいましたという意味ですが、では、宇治の橋姫の心とはどのようなものだったのでしょうか。
宇治の橋姫は本来はその名の取り、橋の守り神で、先ほど紹介した宇治橋の「三の間」の張り出し部分に祀られていました。
「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じたことから、平安時代の和歌の世界では可憐で愛らしい女性としてロマンティックな歌にしばしば詠まれていたようです。
ところが平安末期以降になると『源平盛衰記』や『太平記』などに収録されている「剣巻」において、橋姫は恐ろしい鬼女として描かれていくようになります。
丑の刻参りの原型になった橋姫の鬼女伝説ですね。
嫉妬に狂った橋姫が復讐を遂げるべく貴船神社に祈願して、宇治川に21日間浸かった結果、鬼女となります。そして、裏切った男と相手の女を殺したのち、都に出没して罪なき人々を次々と襲います。そこで四天王の一人・源綱が都を見回ることになるのですが、一条戻橋で出会った若い女性を家まで送ろうとしたとき、女が鬼に変身したため、名刀「鬼切丸」で鬼の腕を切り落とすというお話です。
このくだりは、以前の「一条戻橋」の記事にも書いています。
貴船神社と宇治川と一条戻橋はそれぞれかなり距離が離れていますが、縦横無尽に出没するところが橋姫のダイナミックな魅力です。
こちらは通園茶屋の斜め向かいにある東屋観音と東屋之古蹟。
石仏は花崗岩に厚肉彫りされた鎌倉時代の聖観音像ですが、地元の人々から「東屋観音」と呼ばれているそうです。
摩耗した姿が優しく丸みを帯びて、心がホッと和むような仏さまですね。
『源氏物語』50帖「東屋」巻では、匂宮と浮舟が出会います。浮舟に強引に近づこうとする匂宮に警戒心を抱いた薫は、浮舟を宇治の屋敷に隠します。
「さしとむる むぐらやしげき 東屋のあまりほどふる 雨そそきかな」
この歌は、浮舟の住む三条の粗末な東屋を雨夜に訪れた時に、薫の君が詠んだ歌です。雨のなか、長い時間待たされた薫の微妙な心模様が描かれています。
東屋之古蹟から少し進んだところに、彼方神社と椎本之古蹟がありました。
彼方神社は諏訪明神の小さな祠です
『源氏物語』46帖「椎本」巻では、薫の君が師と仰いだ八の宮が亡くなり、2人の姫君姉妹が遺されます。薫は姉の大君に強く惹かれ、思いを告げます。
「立ち寄らむ 蔭とたのみし椎が本 むなしき床になりけるかな」
八の宮を偲んで詠んだ薫のこの歌が「椎本」の巻名になっています。
源氏物語ミュージアム近くの「さわらびの道」には、総角之古蹟があります。
『源氏物語』47帖「総角」では、自分の命はもう長くはないと悟った大君が、妹の中君を薫の君に託します。しかし、薫は中君を匂宮と強引に結婚させてしまいます。大君は病の床につき、薫の胸に永遠の面影を残したまま帰らぬ人となります。
「あげまきに長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなむ」
「総角」の巻名のもととなったこの歌は、薫が大君に贈った求愛の歌です。
さわらびの道には、与謝野晶子が宇治十帖にちなんで詠んだ歌の碑もありました。
こちらも、さわらびの道沿いにあった早蕨之古蹟。
『源氏物語』48帖「早蕨」では、父に次いで姉の大君をなくした中君を匂宮が京へ迎えます。「早蕨」の巻名は、中君がいまは亡き家族を偲んで詠んだ歌「この春は誰にか見せん なき人の かたみにつめる峰のさわらび」に由来します。
以上が今回まわった箇所で、宇治十帖の古蹟には他にも「蜻蛉」「手習」「浮舟」「宿木」の古蹟がありますが、また別の機会に行ってみたいと思います。